Fashion, Collection, Pari 2021 S/S

Maison MIHARA YASUHIRO 2021 S/S Collection

 メゾン ミハラヤスヒロの2021年春夏コレクションムービーが7月11日、YouTubeにて公開された。新型コロナウイルスの感染拡大による影響から、今期はパリコレ史上初となるデジタルプラットフォーム上での展開となり、2021年春夏シーズンのパリメンズファッションウィークは7月9日から13日までの4日間開催となった。今期のパリファッションウィークにおけるコレクションは、映像と音声のみという限られた表現手段の中、どうブランドの色を出すのか、どう自らのクリエイションの究極系を視聴者に伝えるかなどといった試行錯誤の苦労が垣間見えたのと同時に、クリエイティブチームの真価も問われたと感じる。生身の人間が衣服を着ている姿を観客に近くで体感してもらうという、「ファッションショー」の根幹となる部分が欠落した今期、二次元空間に開かれたプラットフォーム上での見せ方の部分が最重要になってくる。

 オンライン開催におけるメインコンテンツとなるのがコレクションムービーだが、参加ブランドの多くが10分以下という長さだったのに対しメゾン ミハラヤスヒロ のコレクションムービーは約17分。ショートフィルム並みの尺で、OP・EDは今期のテーマ「MORE OR LESS」に紐づいた操り人形のコミカルなアニメーション仕立てとなっていた。主人公とされる人形の起床のシーンから始まり、ブランドのインビテーションを片手に実際のショー会場まで足を運ぶという内容で、視聴者はコレクションへの期待感をその操り人形と共有している感覚になれる。

 アラーム音と同時にショーはスタートした。音楽ホールのステージに黒のカーペットを敷いただけのランウェイ、そしてそのランウェイがぼんやりと浮かび上がるようなライティング。実にシンプルで一切無駄がない演出である。ランウェイを歩くモデルの首から上にはボックス型のカラフルなアニメーションが合成されており、ショーの構成要素でもあるメイクやヘアスタイル、アクセサリー、モデル自身のルックスや雰囲気などの付加価値的、身体特徴的な情報が全て排除され示唆に富む表現となった。見方を変えれば編集という付随的な工程があるからこそできる表現であり、必然的に視線はコレクションピースへと向かう。

   

 今期のコレクションではブランドのシグネチャーともいえる、解体・再構築、ドッキングといったクリエイションが更なる進化を遂げた。特にシャツ類のバリエーションの豊富さが目立つ。複数の袖がバックに埋め込まれたかのような構成のシャツ、シャツとカットソーという二つのアイテムを、それぞれフロントとバックに精細に縫い合わされて構築される一着のブルゾン、三本のパンツをドッキングした直線的なカッティングのパンツなど、自由な発想に基づいたピースたちは見れば見るほど新たな発見があり、ブランドのプレイフルな世界観を絶妙に体現している。

  

 再構築やドッキングのみならず、タグや袖のディテール、デフォルメされたパーツ、アームホールや肩の落ちる位置なども計算しつくされていて、抽象的かつ流動的な表現へと繋がる。股下が深いリラックスしたスラックスや、ブランドらしい洗練されたグランジ、ミリタリー・ワークウェア要素のあるコレクションピースたちは三原氏の古着への深い造詣やリスペクトが感じられる。

 中でも今回一番目を引くのが「スプレーオン」シリーズのアイテムである。京都の老舗加工工場にて、職人の手作業により縫合後にスプレーで染料を直接吹き付けるという手法をとっているため、まるで後染めのような濃淡異なる柔らかな風合いの表現を可能にしている。この手法の最大の魅力は一点物というところにあり、ひとつひとつのアイテムに独自のテクスチャーが生まれ、そこには確かなクラフトマンシップが光る。

 ブランドの原点であるシューズでは、「ブレイキー」という新たなモデルが発表された。70年代~80年代のバスケットボールシューズのデザインからインスパイアされた今作でも、ブランドが得意とする粘土で形成されたような表情豊かなソールデザインは健在である。スニーカーの他にも、ビリヤードボールをモチーフにしたヒールのブーツ風サンダルなども印象的であった。先述の通り、今期のメインテーマとなったのは「MORE OR LESS(多かれ少なかれ)」。「多かれ少なかれ、私は不完全なものに美しさを感じる」という三原氏の感受性が全体を通して存分に体現されたコレクションであったと思う。

                 

“Fashion is after all, an unreliable thing.
Illogical. Unequal. 
My fashion philosophy. 
It is that fashion is the same as comedy and a puppet show.”

                   

 どんなに楽しい喜劇やコメディー映画にも始まりと終わりが存在するのと同じように、このコレクションムービーにも始まりと終わりが存在する。エンディングでは意思を無くした操り人形たちがショーの会場に取り残され、哀愁を帯びたピアノの旋律とともにスタッフロールが流れて幕が下りる。ファッションの刹那的な要素を人形劇に隠喩したこのムービーは、一つのコンテンツとしての完成が実現していたと同時に、新たなアプローチの模索の始まりでもあると感じられた。

                  

text/飯田峻也